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ゼミ課題読書感想文

佐久間理奈 201204

 


 

1.江戸川乱歩傑作選

1.1 二癈人

 一作目の「二癈人」では、なってもいない病気にかかったと思い込まされて、一人の人間に人生をもてあそばれてしまった点に恐怖を感じた。また、最後の結末で、井原氏を陥れた木村張本人と思われる人間に真実を告げられ、怒りよりも尊敬の念が表にでて微笑んだ所に井原氏の自分の愚かさへの諦め、そんな自分を長年にわたり騙しきっていた木村氏への尊敬の念が出ているところに異常さを感じた。しかし、井原氏の思った通り木村氏張本人から今までのことのネタばらしをされたのであれば、木村氏の考えた犯罪の真実を伝えたい、自身の頭の良さを知ってほしいという幼稚さも感じた。

1.2 赤い部屋

 Tの話を引き立て、真実味を持たせる赤い部屋の描写が精密で表現も不気味に感じた。赤い部屋を演出している緋色の垂れ幕の「その静脈から流れ出したばかりの血のようにもドス黒い色をした垂れ絹」(p158)、その幕に移るろうそくの影の「幾つかの巨大な昆虫ででもあるかのよう」(p158)という描写が一層その部屋の異常な雰囲気を盛り上げていた。雰囲気を盛り上げてから入るT氏の作り話も、その部屋で話すからこその現実味があって、結末が分からない一回目と二回目読むのとでは感じる恐怖の度合いが大きく異なった。特に二回目読んだ時には、T氏の話の造りの雑さを少し感じた。しかし、一回目に読んだ際は、そんな点も感じず、話の中の聞き手と同じく不気味な雰囲気を感じ、その聞き手の気持ちを給仕女の持つ銀盆に生首がのせられたと錯覚するような描写がうまくその雰囲気を表していた。その後の、T氏と給仕女の仕組んだ芝居がその雰囲気を最高潮に持っていき、皆が静まり返った後に笑い声が響き、部屋の中の電灯が点けられ、今までの雰囲気を一掃し現実味だけが残る部屋になる落差に爽快感を感じた。話を通じて、雰囲気のコントロールがとても上手な作品だと感じた。また、聞き手の視点で話が進められるので自然とT氏の話に翻弄され、T氏に騙される形で読み進められたので勢いもありとても楽しく読めた。

1.3芋虫

 人間椅子・鏡地獄・芋虫の最後の三作品はどれも、猟奇的な色が濃くでた作品だと感じたが、今回江戸川乱歩傑作選を読んで一番強烈な印象が残った作品が、「芋虫」だった。まず、話の題名にもなっている戦争では優秀な功績を残した須永中尉の四肢はなく、話すことも聞くこともできない「黄色い肉のかたまり」という描写が生々しい。そして、妻である時子はそんな夫を虐げる事に刺激を見出だし快感すら感じ、ある夜に夫の目をつぶしてしまう。ここまではこの話の異常な部分が強く出ていて、妻の残虐な行為・思考にぞっとするが、この話の一番の怖さは話の終盤の夫の行為にあると思った。柱に残された「許す」という妻への返事と思われる言葉を書き残した行為である。この「許す」という言葉には、「私は死ぬ。けれど、お前の行為に立腹してではないのだよ。安心おし。」(p339)という意味が込められていると話の中で書かれているが、この人間味のある文章が、今までの流れから浮いているような感じがして私はこの話の不気味さが増したように感じた。その文字を見た後に、夫と思われる芋虫のように体を動かしている影が井戸に落ち鈍い水音をたて、妻が放心する話の結末の風景を思い浮かべると趣すらあるように感じられた。

1.4 まとめ

 江戸川乱歩傑作選では、明智小五郎が登場するような探偵色が強いものと人間椅子や鏡地獄、芋虫などの猟奇的出来事が取り上げられている話の二つに分かれているように感じた。また、異常な雰囲気を描きその話の視点などの工夫で、読者が一番その雰囲気を感じ、話のなかに取り込まれるような書き方をしていた。

 

 

罪と罰

 

主人公であるラスコーリニコフが2人の人間を殺したためにその罪で自分を追い込んでいってしまう話である。ラスコーリニコフは、大学生の話を聞き、自分の思想に勢いがついてしまいアリョーナ・イワーノヴナの殺人計画を行動に移してしまう。その思想とは、性格も曲がっており、ただお金を蓄えているだけの人間を殺し、その金を事業や他の善人に回すという思想である。しかし、実際の殺人はアリョーナ・イワノーヴナだけでは済まず、偶然その現場に居合わせてしまった、気の弱いリザヴェータを殺してしまうこととなる。この殺人の後ラスコーリニコフが自分の行った殺人について責め続ける原因は、この計画にはなかったリザヴェータの殺人にある。この殺人のせいで、彼は自分の思想にそって行動することが叶わず、理屈ではなく本能でリザヴェーダを殺し彼は狂っていってしまう。しかし、仮にラスコーリニコフが、アリョーナ・イバノーヴナの殺人に計画通り成功し、自分の思想通りの行動を完遂できたとしても、その後彼は同じ思想で罪を重ね、いつかリザヴェーダの殺人のような予想外の罪を犯してしまうことで、彼が自分の罪を責め狂っていってしまう人生を送るのは変わらないと思った。また、彼はアリョーナを殺人するまでに、何度もその考えが浮かぶ度に自分を責め、その考えを実行するところまでは否定する、というように葛藤し、殺人の行動に移す後押しをしたのは偶然聞いた大学生の話であった。このように、現実に起きている殺人も、その中の多くの実際に行動に移すきっかけは偶然の一致によるものではないかと感じた。その偶然は、状況であったり自分の心の状態、外界の情報など様々ありそれらが一致する確率は高くはないが、それでもその偶然に背中を押されてしまい殺人を犯すことは現実にもあるのではないか。しかし、この罪と罰では、考え抜いたうえで殺人に及んだものとそのつもりはなかったのにその場の勢いで犯してしまった殺人の二つの対比が印象的だった。その理性のない殺人のせいでラスコーリニコフは人生を狂わせてしまうのである。結局は、ラスコーリニコフの生きることへの執着が強く出てしまったのである。

 ラスコーリニコフは、結局殺人を犯してしまうが、彼は強い正義感を持っていたように感じた。例えば、公園にいる女性を保護し、家まで送り届けようとする場面や、第1巻にあるラスコーリニコフがみた馬を庇う夢の話に彼の正義感が感じられた。そして、その正義感がいきすぎてしまったために彼は結果的に二人の殺人に及んだのではないだろうか。これを私が感じたのは、公園にいる女性を保護しようとする場面での「急に、勃然として、この脂ぎった気障野郎を思うさま侮辱してやりたくなった。」(p83)という一文である。「侮辱してやりたくなった。」という一文に、どこかで、彼の正義感は屈折しており、結局自分への尊敬を得たい、相手より上の立場に立ちたいという欲が垣間見られたように感じた。そして、そのような彼の正義感はもはや正義感と呼べる代物ではなく、正義感があるからといって正しい行動につながるわけではないことを改めて強く感じた。私は、本書を最後まで読んではいないが、この物語の結末ではラスコーリニコフは自分の罪に耐えきれず自殺してしまうのではないかと感じた。

 

 

プロタゴラス―あるソフィストとの対話

 

「徳とは教えられるものなのか」、「そもそも徳とは何なのか」をテーマとしてソクラテスとプロタゴラスが対話をする話である。結局、二人が至った結論は、プロタゴラスの勇気と知恵は互いに関係のない徳であるという考えと、ソクラテスの徳は教えられるものではないという考えを否定するものとなってしまう。つまり、徳とは知性と関係があり、教えることができるものであるということである。

本書では、ソクラテスがプロタゴラスに教わる形で対話を進めていくが、そのように一方的に論破する目的ではなくとも考えを深めていくには人との会話・批判し合うことが効果的であることを感じた。結果は、プロタゴラスの主張・ソクラテスの主張共に覆されてしまったが、その結果のおかげで逆に徳とは何か、疑問が残り考え直す機会になり、解説にあるよう後半出番が全くないヒポクラテスの立場でソクラテスとプロタゴラスの対話を聞いている感覚にもなった。このような形式だと、読者に思考を促す哲学書で親しみやすく、プラトンの生きていた時代にこの形の話がすでにあったことにも驚いた。

本書にあるように徳とは、知恵、節度、勇気、正義、敬虔のことだとすると、現代においてプロタゴラスと同じく徳は教えられるものだと考える。ソクラテスは、才ある親の子が必ずしもその才を受け継げない、と反論していたが、親が子に伝えるものは才のみではなく、また、才が徳のすべてではない。子どもの性格は育った家庭環境・親に影響をうけることが、意識的ではないにしても徳を子どもが親から学び取っていることといえるのではないだろうか。私は、人と一緒にいて関わりあうことが徳を教えることと、教わることであると考える。つまり、現代においては友達との会話、家族との団欒、というような日常生活の中に、徳を学ぶ機会が溶け込んでいるのである。

「徳の各部分はそれぞれ別のものなのか」という討論もかなり白熱しており、結局最後にはプロタゴラスが一番重要と述べている知恵の徳と勇気を含めた他の徳が関係していると認める事になる。私は徳は、知性だけでなくすべての徳が相互作用して、人間を造っていると考える。そのため、徳を単体でみることは現実的ではない。そして、それらの徳の土台となっているものは知恵なのではないだろうか。徳の有無は行動に現れると考えるので、判断のもととなる知恵がなければ、正義や勇気の徳のある行動はできない。プロタゴラスの「じっさい、どんなものでも互いに較べれば、どこか似ている点はあるのだ。」(p93)という言葉は、自身の徳に関する主張を危うくしているようにもみえるが、人間の持つ徳で一見関係のなさそうなものでも実は相互に影響し合っていることを表した一文だと感じた。また、現代に置き換えて考えてみると、土台となる知恵を育むために義務教育がありその先の教育機関等を通して他の徳とはどういうものなのか、自分はどうなりたいのか、を自問自答していくことで徳を成長させていくのではないだろうか。徳の意味の捉え方が正しいのか判断しかねるが、私は知識が増えたり磨かれることで精神的に成長し、価値観を変えたりしていくことが現代における徳の成長であると感じた。